最近の私の音楽事情
前置き
最近、私はApple Musicに課金した。ファミリープランなら月額1,500円ちょいでお得。
2週間ほど経って、「新しい音楽」についていけない。ことに気がついた。曲の1つもまともに聴けない大人になってしまったのかと思って悲しくなった。それから色々試行錯誤して分かったことがあったので書き留めます。
楽曲と自分の間のバランスの取り方
音楽を聴いていると心地の良し悪しが出てくることがある。少しでも自分にとって都合の悪い所が楽曲にあると聞き辛くなってしまう。それは既に知っている楽曲であるにも関わらず…
音声データは静的コンテンツだ。自分が如何に楽曲を楽しむかで楽曲の良し悪しが変わる。
- 作り手のことについて学んだり、楽曲とその時代背景を知る
- 聴く場面を変えてみる
- 媒体を変えて聴く(MAD作品で音楽を聴いてみる)
このように私たちは自分のコンテキスト(背景、現状とそれまでの経験)を塗り替えたり、供給側から塗り替えられたりしながら音楽の味わい方を変えていく訳だと思うが。自発的にコンテキストを塗り替えるユーザー(消費者)は極一部だろう。これができる人は、きちんと音楽を聴くという行為ができる人なのだろう。
音楽を消費する時の状況とそれまでの背景を更新することは大変だ。
それを消費者にやって貰える(消費者に駆り立てる)のはカリスマ性があるアーティストだけだろう。だから、みんなマーケティングして配信側も努力する。
ここで問題になってくるのが、10年前と比べて今の「新しい音楽」は「本当に静的コンテンツなのか」ということだ。
音楽データは確かに静的コンテンツだ。だけど、Spotifyはわたしの好みに合った音楽を推してくる。AppleMusicはアーティストや楽曲情報もついでに提供してくる。レコメンド機能やYoutubeのMAD、Instagram。色んなところから人々の情報を蓄えてパーソナライズしてくる。
気づいたらその楽曲に対する心地良さが変わっている、、自分のコンテキストが更新されているからだ。
これは果たして静的コンテンツなのか?と思うが、結局はどうでもいい。
わたしには音楽を聴く側の余白が奪われているような気がした。
余白のあり方
「新しい音楽」はレコメンドされて初めて出会ったり
映像とミックスされて「新しい音楽」になってしまったり
思いがけないカテゴライズをされて「新しい音楽」になっている
私のコンテキストを勝手に塗り替えられているような気分になる時がある。
これらを受け容れるには「聴き手の余裕感、余白」が大切なんだろう。
生憎、私が音楽を聴く時はストレス発散や逃避、没頭したい時に聞くので余裕が無い。
なので「新しい音楽」の負の面みたいなのを享受しやすいんだなぁと思った。
自分の気分を変えてくれる音楽
疲れている時に自分の好きな音楽がクソみたいな映像と使われていたとしても、あなたの気分を変えてくれる音楽というのが自分にとってのMy Songなのでしょう。
あなたのMy Songは何ですか?(イケメnバンドマン風声)
音楽を聴くことを消費だとか、生産だとかで話すのはナンセンス、ソーナンス。